耳障りな絶叫が、辺りに響いた。 大の大人の、しかも男があげる声じゃねぇな。 強い軽蔑が混じった吾代の視線の先には、指から血を滴らせて喚きもがく男。 そしてそのすぐ横には、唇を血でぬらし、怯える女の姿があった。 女が、男の指にかみついたのだ。 女は、自分が加害者にもかかわらず、痛みを全身で訴える男とその男の血に、酷くおびえているようだった。 傷つけた相手がどうであれ、他者に傷を負わせてしまったということに、怯えている。 少し離れた所からその様子を眺めていた吾代は、眉根を寄せて嘆息した。 怯える対象が間違ってるっつーの。 女は、己の現在の収入では到底返済できないであろう金額にふくれあがった借金を、それでも返済するため、ここにいるのだ。 お前が売れるもんなんて、自分ぐらいしかねーだろ。そう言われて、脅され、滅茶苦茶にされてからここに来た筈なのに、何故、人を傷つけた、只それだけのことで怯えるかが吾代には分からなかった。 …つーより、分からなくなったっつーのが正しいのかも、な。 加害することに慣れていない女とは違う。吾代は加害することが既に日常となっているから、例え自分の歯が男の指を喰い千切ったところで怯える事はないだろう。 「テメェ、この糞アマ!」 指を抑えながら、男が女を血走った目で睨んだ。 ここで漸く怯える対象を正しく認識し直したらしく、男の側から女が後退る。 「逃げてんじゃねーよ!」 男が、女の顔を殴った。 衝撃で、女は床に倒れこむ。女の頬は赤く腫れ、唇は、今度は女の血に濡れた。 痛みで弱々しく震え泣く女を見下ろし男が笑う。笑いながら、腹を蹴る。ある程度抑えられた力だったとはいえ、女の体はくの字に曲がり、むせ返る。唾液混じりの血が散った。 吾代の視線の先で、女がまた一発、蹴りとばされる。蹴られるたびに抵抗が弱くなっていく女の姿に、今だ流れ続ける男の血液に、吾代は早乙女の言葉を思い出していた。 …吾代、凶器なんてなくたって、人は殺せるんだぜ。 「…頭や体を殴ったり蹴りとばしたりすればいい。もし手足が塞がれたとしても…」 女はもうぐったりとしていた。ぴくりとも動かない女の口は血まみれになっていた。 「首筋を喰い千切ってやればいい、だったか」 吾代は男に歩み寄った。 「その辺にしとけよ。商売道具に死なれちゃ困るのはあんたらの方だろ」 自分よりも若い男に指図されたのが気に喰わなかったのか、男は露骨に不快そうな顔をした。だが、上等な取引先ともめ事を起こす不利益さを考慮できる程度の分別はあったようで、蹴りだした足を引っ込める。 「じゃあ、こいつの給料の振り分けは前言った通りで。いつもの口座に振り込んでくれ」 「分かりました」 短い会話だけで取引は終わり、吾代はきびすを返す。後ろでは、男のがなり声が聞こえた。 どうやら女を無理やり立たせようとしているらしかった。あれだけ蹴りとばせば、暴力に慣れていない人間はそうそう立ち上がれるようなものではない。それが分からないのだろうか。 …仕事させる前に死ななきゃいいけどな、あの女。 死なれてしまっては元も子もない。何もせずとも入ってくる予定の金が、ゼロになってしまう。 …社長に報告しとくかな。 気になる点があれば、迅速に報告をする。 そうやって上のご機嫌をとるのも、大切だ。 ここ数ヶ月で吾代が学んだことのひとつ。 「だめだなその男は」 報告をするなり、早乙女はすっぱりと言い切った。 「商品を大事に扱えねぇやつにこっちの商品預けられるワケねーだろ」 「俺もそう思う。で、どうするんだよ」 「うまく言っといてやるよ。女が死んだ場合はその男に女の分まで返済させる」 「慰謝料つけて?」 そう答えたら、早乙女が爆笑した。 「ンで笑うんだよ!」 「いや、お前も賢くなったもんだなぁと思ってな」 そう言って、早乙女吾代の頭を軽くはたく。 「俺の躾の賜物だな」 「…そーゆーのって普通、教育の賜物って言うんじゃねーの?」 叩かれた頭をさすりながら、吾代は抗議するが、早乙女は笑って受け流すだけだった。躾から教育へ改めるつもりはないらしい。 「あーまぁ取り敢えずはご苦労だったな吾代」 「給料の上乗せよろしく」 「寝言言ってんじゃねーよ」 早乙女は吾代に背を向けた。 机の上の書類に手を伸ばすと、シャツと髪の間から、肌がのぞく。 筋の浮いた首筋に、ふと頭をよぎるものがあった。 …首筋を、 吾代は早乙女に近づき、唇をよせた。 そして、そのまま食らいつく。 一瞬、早乙女の体がゆれた。 …喰い千切ってやればいい。 ぐ、と歯に力を込めると、肌に食い込んでいくのがわかった。 このまま力を入れて喰らいついて、引きちぎれば、死ぬ。 く、とまた、早乙女の首に歯が食い込む。 喰い千切れば、 吾代は首筋から口を外した。 さっきまで己の歯が食い込んでいた部分は、くっきりと歯の跡がついて唾液がぬらりと光っていた。 …糞、 吾代は内心、自分に向かって毒を吐く。 飼い殺されている不本意極まりない状態なのに、いくら牙を食い込ませても殺したいなど微塵も思わなかった自分に腹がたった。 そして何より。 …何で全く抵抗しねぇんだよ。 殺されるなど微塵も思っていないように、体を固くすることさえしなかった己の支配者に、苛々とする。 「なんだ吾代?誘ってンのか?」 余裕の滲んだ笑顔でにやりと笑うその顔が、憎々しい。 |