仕事の前に何か食っていくか。
そう促されて、吾代は進路を変えた。
好きな物食いに行っていいぞ、奢ってやるから。
助手席に座る早乙女は妙に上機嫌で、何のためらいもなく気前のいい言葉を口にする。
信号待ちの間、雪でも降るんじゃねぇかとフロントガラスの向こうの広がる真夏の蒼天を眺めながら思った。


折角だから、高いものでも奢ってもらおう。
そう思っていたはずなのに、結局たどり着いたのは行きつけのラーメン屋だった。
急に言われると何を食べに行けばいいのかわからなくなるものなのだなと、お馴染みの引き戸を開けながら溜め息をつく。
「ンだよ、遠慮してンのか?吾代?」
今まで一言も喋らずついてきていた早乙女が、店を覗き込むと同時にからかう口調で言った。吾代はそれを無視し、ついでに店員の案内も無視してさっさと席に着く。
ここに来たときはいつも座る、奥まったところにあるテーブル席。早乙女は面白そうな顔をしたまま、吾代の正面に腰かけた。
「もっと高い店でもよかったんだぜ?随分奥ゆかしいじゃねーか」
吾代は煙草をくわえたまま早乙女をにらみつける。馬鹿を言うな!と怒鳴りつけたい衝動を抑えて、唇をへの字にひん曲げた。
「ンんなんじゃねーよ。社長に借り作りたくねーだけだ」
「こンくらいで貸しなんて言いやしねぇよ馬鹿」
散々からかわれた上に馬鹿呼ばわりされたのが非常に腹立たしかったので、吾代は心おきなく注文することを決意しメニューをひらいた。


安くて気取らない店のいいところは、注文してから料理が届くまでの時間が短い所だと吾代は思っている。
もちろんこの店も例外ではなく、五分としないうちに注文した料理が全てテーブルに並んだ。
ラーメンと餃子がひとりに一つずつ。焼き飯大盛りが一皿。あとは食べたい一品料理を片っぱしから頼んでやった。
食べきれるのか若干不安な量が並んだテーブルには最早隙間はない。テーブルの端っこになんとか置かれた飲み物が今にも落下しそうだ。
「吾代」
名前を呼ばれて目線を上げると、生ビールを掲げて早乙女がわらっていた。その仕草が意味するものに気付いて吾代は思いっきり顔を顰めた。
「乾杯」
馬鹿じゃないのかこの人は。そう思いながらも、吾代はテーブルの隅で肩身が狭そうにしている烏龍茶が入ったジョッキを慎重に持ち上げ、促されるままに早乙女のジョッキにぶつけた。
かちん、と高い音がして、中に入っていた飲み物が不安定にゆれた。
「おっと」
今にもこぼれおちそうなほどに注がれていたビールの泡がジョッキの縁から伝い落ちるのを器用に口で受け止めて、早乙女は得意げに笑う。本当に、信じられないほどの機嫌の良さだ。
普段の早乙女を知っている分、気持ち悪くすらもあるなぁなどと考えながら、吾代は烏龍茶を口に含む。
ひやりと冷たいそれは確かに暑い今の季節には心地良いものだったが、早乙女がぐいぐいと煽るビールにどうしても目がいってしまう。
烏龍茶の苦味とはまた違った苦味に、喉を滑り落ちる炭酸の感触。思い出すだけで恋しくてたまらない。
その恨めしそうな目線に気づいたのか、早乙女がジョッキに口をつけたまま器用に片眉をあげて見せた。
グ、とジョッキの中程まで飲み干したところでジョッキから口を離し、上唇についた泡を舐めとる。死ぬほどうまそうだ。
早乙女は吾代が送る熱視線の意味にちゃんと気付いていたらしく、乾杯したときと同じようにジョッキをかかげてみせた。
「飲みたいんなら頼めばよかったじゃねーか、ビール」
別にのめねぇわけじゃねぇんだろ?そう聞かれて目をそらす。飲めないわけじゃない。むしろ大好きだ。こんな暑い日には特に。
だが、
「俺今日運転手じゃねーか」
早乙女が、ジョッキ片手に目をまあるくした。
そして。
「ぶははははははははは!!!」
その人となりからして不釣り合いなほど爆笑した。
「な、何で笑うんだよ!最近厳しいンだぞ規制!!」
「おま、キャラとあわなすぎるぞ!!やべぇ、ツボった…!!」
賑やかな店内にあって一際騒がしい吾代たちのテーブルに視線が集まるのがわかって、吾代は赤くなる。なんとなく周囲の人間からも馬鹿にされている気がするから不思議だ。
「お、社長!まじいい加減にしろよ!!」
「ブ、規制とかンな言葉が、お前の口から出る日が、ブハ、あー、まじ、死ぬ」
「死ねよ!!」
ビールがジョッキの半分まで減っていてよかった。吾代が熱烈な視線を注いでいたビールが、早乙女の動きに合わせて激しくシェイクされていた。
満杯だったら確実に昼飯はビール浸しになっていただろう。 ビールジョッキを持つ、というのがおこがましいようなぞんざいさでジョッキを手に納めている早乙女は、時々ガシャガシャとテーブルの上の皿にジョッキの底をぶつけていた。
そこまで笑われることだとは思わないのでひたすら不条理だ。現に吾代は最近スピード違反で罰金をくらったばかりで、その時の罰金は新人取り立て屋の安月給にはなかなか厳しい出費だった。
もうこれ以上減点も罰金も食らいたくないと思うのは自然な思考であって決して大笑いされるところではない、筈だ。
「っはー、笑った笑った」
吾代がぐだぐだと足りない頭で考えているうちに、早乙女が立ち直ったらしい。ゆるんだ口元を隠すように拭って、笑いを飲み込むように再びビールを一口あおった。そして吾代に向きなおり、
「ブ、」
「いいかげんにしろよ!!」
このやりとりが、そのあと数回繰り返された。


「お前って変なところで真面目だよなぁ」
ようやく笑いのおさまった早乙女が、少しのびてしまったラーメンを租借しながら言った。
「うるせぇよ」
散々笑い飛ばされすっかり不機嫌になった吾代は途中から早乙女が笑うのを無視して着々と昼食を食べ進めていたため、もうラーメン、餃子は攻略済みだ。
吾代は小皿によそったチャーハンをむさぼりながら、店に入ってきた時以上に唇を下方向にひん曲げる。
「ほらそれとか」
「あ?」
早乙女がテーブルの上をゆびさした。その先にはチャーハンの皿。
きっかり半分消失したチャーハンを嬉しそうに指さす真意が分からず眉根を寄せると、 早乙女はラーメンを食べる手を止め、半分残ったチャーハンの皿を手に取った。それを自分の前まで引き寄せて、吾代に向かって皿の中身がよく見えるように傾ける。
「きっちり半分こ」
「!」
そろそろ三十に手がとどこうかという男が使うには不釣り合いな言葉の思わぬ破壊力に、吾代は口いっぱいに含んでいたチャーハンを思いっきり喉に詰めた。
げほ、げほと咽ながら、必死に烏龍茶のジョッキを探す。
「汚ねぇな。米粒とばすなよ」
「…っ誰のせいだとおもってるんだよ!」
やっとのことで食道に米粒を流し込むことに成功した吾代は、涙目で反論した。 なんだって今日の早乙女はこうもカウンターばかり繰り出してくるのか……まぁもともと、早乙女はストレートなタイプではないのだが。それを差し引いても、今日は少々トリッキーすぎる。
「俺の所為だって言うのかよ?」
早乙女はのびたラーメンを吾代のほうへ押し付けると、先ほど吾代が喉に詰めたチャーハンの、きっかり「半分こ」に分けられた残りを食べ始めた。
さっきのダメージが残っている所為で、チャーハンを食べられるだけで意味もなく恥ずかしい。
どれだけ恥をかかせれば気が済むのだろうかこの男は。吾代は仕事前にも関わらず徹夜で仕事をした後のように疲れ果てた。
もはや反論するのも馬鹿馬鹿しくなって、押し付けられたラーメンを無言で食す。のびた上に若干冷めたラーメンは正直不味い。
「律儀っつーか、何つーか」
会話を放棄した吾代の代わりに、早乙女が一方的に喋っていた。
「お前、一回懐開いた相手には妙に義理堅くなるタイプだろ」
「変に人がいいっつーか」
「うっかり猫拾っちまって捨てられなくなったことねぇか、吾代?」
無視するのは会話に疲れてしまったからで、断じて図星だったからではない。
断じて、そうでは、ない。


あれだけ大量にあった昼食も、案外あっけなく胃袋に収まりきってしまった。
「あー。こンだけ腹いっぱい食うのも久々だぜ」
早乙女が胃のあたりをさする。吾代もそれに関しては同感だった。真昼間っからこんなに胃袋を膨らませたのはいつぶりだろうか。
食費以外に結構金がかかってしまうから、どうしても食費は後回しになりがちだった。不摂生がモロに体に来る歳でもないので、生活が苦しくなったら嗜好品よりもまず食費から削ってしまうのだ。
「車あっためとけよ、吾代」
そう言い残して、約束通り伝票を片手にレジへ向かった早乙女の言葉に従って、吾代はさっさと店を出てエンジンをかけた。
この時期にあっためるも糞もねぇだろう、と思ったが、奢ってもらった手前こっそり心の中にとどめておくだけにする。
炎天下に放置された車内は相当暑くなっていたので、吾代は冷房を最大にした。それでもきちんと効くのはもう少ししてからだ。
店内の涼しさに一旦ひいていた汗が再び滲んできて不快だ。吾代はシャツの襟元をつかんでばさばさと空気を送る。蒸し風呂みたいな車内でも、風を入れた分だけ涼しくなった気がした。
自分で作り出した風が肌をなでるのを感じながら、吾代は今日の早乙女の妙な機嫌の良さの原因を考える。考えるが、結局はわからなかった。
アンタは相変わらず、何考えてるのかわかんねーよ、社長。
冷たくあしらってみたり、殴ってみたり、かと思えば急に機嫌よく接してみたり。
早乙女の真意はいつまでたっても掴めない。
ただ、
吾代は、テーブルをはさんで、向き合って食事をした早乙女の姿を思い出した。
大声を出して笑う早乙女。吾代と同じようによく食べて、饒舌に喋る早乙女。
恩義は感じていたがどこか他次元の人間めいていた早乙女が、急に身近になった気がした。
冷酷で暴力的で結構酷い男の偶像が、機嫌よく笑い、旨そうにビールを煽り、人の揚げ足を楽しそうにとる姿に上書きされていく。
がちゃ、と音がして、助手席のドアが開いた。
「お、結構冷房きいてンじゃねーか」
会計を終えた早乙女が、するりと滑り込んでくる。
もうその酷薄な顔に、冷たさばかりを感じない自分は、この男の言うとおり対外お人よしなのかも知れない、と思った。




2007.05