大きな鍋から立ち上る湯気が、換気扇に吸い込まれていく。 吸い込まれてはいくが、ボロいアパートの汚い換気扇では吐き出す蒸気の全てを吸い込む事は出来ないらしい。おかげで、狭い部屋いっぱいに蒸気のにおいと熱が漂っていた。 鍋の前に立った早乙女は、時折鍋をかきまわしながら、小鍋を棚から取り出す。そしてその中に以前買い込んだ缶詰のミートソースをあけた。それを空いている方のコンロにのせて火にかける。 暫くすると、嗅覚を刺激する何ともいえない良い匂いが、蒸気を押し退けるように部屋の中に満ちた。 「なぁ社長ー、飯まだ?」 その匂いに誘われてか、吾代が声をかけてきた。何とも非協力的な台詞である。視線を流すと、テレビの前に座ってこちらを見ている吾代と目が合った。 目が合うと同時にもう一回、「まだ?」。 「早く食いたかったら手伝えよ」 「だってやることねーじゃん」 「皿だすとかザルだすとかあんだろーが」 「めんどくせぇ」 「…殴るぞ」 低く押し殺した声でそう言えば、露骨に顔を顰めながらも、吾代は「よっこいせ」なんてじじくさい掛け声をだしながら立ち上がった。 そして、のそのそと台所へやってきて、言われた通りに皿を出しはじめる。 もっとシャキシャキうごけよ、と睨みつける早乙女の視線のその先で、 二人で食事するにはギリギリの大きさのテーブルに、丼が二つと、箸が二膳、雑に置かれた。 「…吾代。テメェは丼でスパゲティを食うのか?」 「だって汚れてねぇのこれしかねーんだもん」 「もん、じゃねーよ。食器洗いはテメェの仕事だろーが」 今から洗えよ、と早乙女に命令され、吾代は嫌そうな顔をしながらも流しに立った(先程の皿の準備のときといい、吾代は常に非協力的だ)。 流しには二人の食器のほとんどが押し込んであったが、男の二人暮らしだからたいした量ではなかった。 「なぁ吾代」 「なんだよ」 「狭ぇんだけど」 この部屋の台所は大の男が肩をならべるには少々狭い。肘をまげれば腕がぶつかるような状態で、それでも並んで、ふたりは食事の準備をする。 「マジ邪魔。どけよ」 「社長が洗えっつったんだろ」 睨みあう距離までも、近い。ここでキスのひとつでもしてやったらどんな反応をするだろうかと早乙女はおもったが、数少ない食器を割られてしまったらたまらないので、やめておいた。 「おら、吾代、どけ」 「だから社長が、」 「そうじゃなくて、湯」 火傷してぇんならとめねぇけどな。ゆであがったスパゲティと、たっぷりの熱湯がはいった鍋をかかげてやると、吾代は慌てて流しから身をよけた。それを見計らって、早乙女は用意しておいたザルに鍋の中身をあける。ざぱ、と景気のいい音をたてて、スパゲティと熱湯がザルによって選別される。もうもうとたちのぼる湯気が、熱湯の未練のようで何となく哀れっぽかった。 「洗った食器の上にかけるなよ!」 「消毒だよ、消毒」 スパゲティの茹で汁で消毒になるかよ!と吾代は怒鳴った。 茹であがったスパゲティを洗ったばかりの皿に盛り付け、たっぷりとミートソースをかける。 まったく手はかかっていないが、旨そうだった。 いい出来だ、と早乙女は一人自画自賛して、口元をほころばせる。 「社長ー、粉チーズは?」 冷蔵庫を覗き込んでいた吾代が、聞いてきた。 早乙女は満足気だった顔を歪ませる。 「ンなもん買った思い出あるか?」 「…」 吾代は無言で冷蔵庫を閉めた。 小さなテーブルに並べられたスパゲティを少し悲しそうに眺める吾代の手には、缶ビールとタバスコが握られていた。 「…今度買おうぜ社長」 「毎日スパゲティでいいならな」 早乙女も吾代も料理のレパートリーがないから、粉チーズを使う料理なんてスパゲティしかない。 使いきるまでに賞味期限が切れるのは目にみえていた。 「何でタバスコはよくて粉チーズはだめなんだよ」 「俺がつかわねぇから」 「…最低だな」 「文句があるなら自分でかってこいよ」 吾代は早乙女を軽く睨み、諦めまじりの顔でスパゲティを食べ始める。 「…なぁ社長」 「なんだよ」 「俺、社長が作ってくれるなら毎日スパゲティでもいいや」 だから粉チーズ買おうぜ、という吾代の頭を、早乙女は呆れるかわりに力一杯ぶん殴った。 |
2007.07.23