「とりっくおあとりーと?」 頭の悪そうな発音で、見ているだけで頭のとろけそうな恰好をした生き物が言った。 その生き物を言葉で表すならば、南瓜のお化け、だ。 ひょろりと長い男の身体。それの頭に当たる部分に、目と鼻の形が陽気に刳り貫かれたオレンジ色の南瓜がのっかっていた。 こんなトンチキな格好をすすんでするような知り合いはいなかった筈なのだが。 「とりっくおあとりーと?」 南瓜男が、再び同じ言葉を口にする。 小卒の俺でも、その言葉の意味ぐらいは知っていた。メリークリスマスと同じぐらい、有名な決まり文句だったから。 『お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ』 何様のつもりだ、馬鹿ばかしい。 「テメェにやるもんなんて持ってねーんだよ!」 消えろ!と怒鳴りつけてやれば、南瓜頭がゆらりと揺れる。 気色悪い南瓜頭が掌をかざした瞬間、変わる筈のない南瓜の面が、にやりと醜悪な笑顔に歪んだ、気がした。 目が覚めたら、全身に寝汗をびっしょりとかいていた。 もう随分肌寒くなってきた時分だ。布団を抜け出したらあっと言う間に汗が冷えて、身震いした。 (気色わりぃ夢…) 何時も目が覚めたら薄れてしまう筈の夢が、今日に限って何時までも鮮明だ。 傾いだ南瓜頭も、目覚めの間際に歪んだ不気味な顔も。 朝の日差しさえも翳ってしまった気がして、顏を顰める。 吾代は目覚めの一本を口にくわえて立ち上がって台所へと向かった。コンロに薬缶をかけ、とりあえず湯を沸かす。 (あー…) 湯をわかす間に髭を剃るため、洗面所へ向かった。 鏡に写った姿は寝起きとは思えないほど疲れ果てている。 これもあの夢の所為だろうか。眠りが浅かったのかもしれない。 そんな事を考えながら、ぞりぞりと髭を剃っていた時だった。 突然、携帯がなりだした。 現在の会社は副社長という地位におさまっているので重役出勤だって許される。今の時間はまだ勤務時間でもないし、よっぽどの事でないかぎり電話はかかってこない筈だ。(唯一の例外だった望月は、着信拒否にしてある) 吾代は一旦剃刀を置いて、やかましい音をたてる携帯に手を伸ばした。 「…は?」 そのディスプレイに表示された文字に、我が目を疑う。 早乙女國春 ディスプレイには、確かにそう、表示されていた。 早乙女は死んだ。 この目でそれを確認した。 携帯のメモリーだってとうに消去したはずなのに、何故この名前が表示されるのだろうか。訳がわからない。 混乱する吾代をあざ笑うかのように、携帯は鳴り続ける。 (…糞、) 正直、この電話をとってしまうのが怖い。 だがこのままでは埒があかないのは確かだ。 吾代は覚悟を決めて、通話ボタンを押した。 「はい、」 『テメェいつまで寝てるつもりだ?殺されてぇのか?アァ?』 鼓膜を揺らしたのは、泣きたくなるほど懐かしい声。 吾代は返事をするのも忘れた。 遠台所から聞こえる、ヤカンの湯がわきたった音が、やけに遠い。 ◇ 呼ばれるまま、現在は桂木弥子探偵事務所である筈の場所へむかえば、もう取り外された筈のプレートがぶら下がっていた。 『早乙女金融』 馬鹿な、と思いながら、恐る恐るドアを引けば、懐かしい風景が目の前に広がる。 見覚えのある机の配置。充満する煙草の煙。 そして、 「おせぇぞ、吾代」 窓際に佇む、会いたくても会えないはずの、人間。 「しゃちょう」 呆然と呟く吾代に、早乙女が口の端を持ち上げる。 「なンだテメェ、捨てられた犬みてぇな顔しやがって」 「…うるせぇ」 自覚がある吾代は仄かに頬に朱をのぼらせ、それを誤魔化すために奥歯を噛み締めうつ向いた。 事実、捨てられたようなものなのだ。主人が死に、住処をおわれた犬。今は新しい飼い主にこき使われているが。 「寂しかったのか?アァ?」 そう言って伸びてきた掌が、吾代の頭をくしゃくしゃと撫でる。 予想外の優しさに思わず頷きそうになり、吾代は固く目を瞑った。 ◇ 死んだはずの早乙女が生きていて、早乙女金融も復活して。 吾代は久々に、金融の仕事をした。 勘が鈍っているかもしれない、と密かに危惧した吾代だったが、幾年も繰り返してきた仕事を体はしっかりと覚えていて、問題なく仕事を終える事ができた。 回収してきた金を握り、吾代は笑う。 一方的に何かを奪うような仕事は、やはり楽しい。 望月の会社での仕事は指示が主で暴れ足りないし、情報屋という仕事柄、円滑に情報を入手し、且つ今後も良好な関係を築く必要があるためギブアンドテイクが基本だ。欲求不満でたまらなかった。 「やっぱ俺、此方の方が向いてるわ」 誰に言うでもなく呟いて、回収した金を掌の中でなぶる。 「向いてる」 言った途端に掌に力が入って、くしゃり、と金に皺がよるのが分かった。 吾代は夜道を、踏みしめる。 その音につられるように下げた視線の先には、上等な革靴が見えた。 じゃりりと音を立ててアスファルトを圧迫するそれは、今の…、望月の、会社に派遣されてから買ったものだ。 早乙女がいなくなって、金融屋じゃなくなって、望月の会社に副社長として派遣されてから、買った。 身入りがよくなって、暴れる機会が減って、ならばと買った、高価な靴。 (なんで) なんで中途半端に現実をつきつけるような真似をするんだ。 どうせなら、幸せな夢をみていたかった。 望月の会社で働いていることや、食い意地のはった探偵とその助手に事務所を奪われた事や、 …早乙女が死んだことや、 そんな事全てが悪い夢だと思えるような、そんな夢なら、よかったのに。 (こんな中途半端な夢なんていらねぇよ) 馬鹿だと自覚している吾代だって気付いた。 今、この状態が、紛い物なのだと。 戸惑いと喜びが通り過ぎ、冷静になれば、嫌でも目につく。 早乙女が死ぬ前の街。 そこにいる、数ヶ月余分に歳をとった自分。 随分前に流れ消えていったニュース。最近見なくなった芸人。一時期ずっと流れていた曲。 その中で、独りだけ置き去りにされたような気分になる。 嫌と言うほど、自分が異物だと感じた。 こんな夢、早く醒めてしまえばいいのに。 作り物だと分かっているのに、俺はいつまでここにいればいい? 吾代の尻ポケットで携帯が震える。 これは最高に出来の良い、最悪な夢だ。 だから、かかってくる相手なんて、決まっている。 吾代はポケットから携帯を抜き取ると、ディスプレイを確認することなく通話ボタンを押した。 『いつまでほっつきあるいてンだ。さっさと帰ってこい』 予想通りの声が、聞こえた。 「なんだ、心配でもしてくれたのか?社長」 『アァ?頭がいかれたのかテメェ』 「…そうかもしれねぇ」 『…マジ大丈夫か?』 訝しげに眉根を寄せた、早乙女の顔が見えた気がした。 「ハハ、優しいな社長」 やっぱ、心配してくれてンだ。 吾代は力無く笑う。 優しい社長。 俺の夢だから優しいのだろうか。それとも、気付かなかっただけでずっと優しかったのだろうか。 それを確認する手だては、もうない。 「社長、俺、社長に言いたかった事があるんだ」 『なンだよ、改まって』 「今じゃねぇと言えない気がするンだよ」 言いたいことが、話したいことがたくさんある。 押し殺した悪態。言いそびれた感謝の言葉。今の会社の愚痴。 本当に、たくさん、だ。 だけど、きっとすべては言い切れないから。 「社長」 『何だよ』 「俺、社長にひろわれてすげぇ幸せだった」 言い切った瞬間、風景が裂けた。 ◇ 夢の中の目覚めと同様に、唐突に目覚めた吾代は、なおいっそう疲れた体を起こした。 酷い夢だ。 あまったるくて、そのくせ心臓を握り潰されるような夢。 「…ぁあ"ー、クッソ」 いつも以上に不機嫌なまま、夢と同じようにヤカンを火にかけ、洗面所へと向かう。 (ったく、何が幸せだった、だよ) 夢の中の自分のしおらしさに顔を顰めながら、気持ちだけは乱暴に髭を剃った(本当に乱暴に剃ったら皮膚が切れるのでしない)。 馬鹿じゃないのか。あんなに罵られたり殴られたりして何処がが幸せなんだよ。マゾか俺は。 脳内で壮絶に自分を罵っていたら、携帯がけたたましく鳴りだし、剃刀を持つ手が派手に滑った。 意味もなく慌てて携帯をとりつつ顎を撫でる。 泡まみれではっきりとは分からないが、切れてはいないようだ。最近の剃刀は本当に性能がいい。 「誰だよこれ」 ディスプレイに表示された、見慣れない番号に、吾代は眉間の皺を深くする。 夢が夢だけに非常に出たくないのだが、出ないのは出ないで負けたような気がして嫌だ。 吾代はあきらめ、しつこく鳴り続ける携帯の通話ボタンを押す。 「はい?」 『吾代くーん、ちょっと分からない事があるンだけど〜?』 携帯から垂れ流されるどこかねばついた声に、思わず携帯を叩き割る所だった。 夢の感傷も一気に吹き飛ぶ、現形式上上司の酷く現実的な声だった。夢から覚める思いだ。ある意味。 「ってめ、着拒否してたのになんでかかってくンだよ!」 『携帯変えれば着信拒否なんて意味ないんだよ、吾代くん』 「それ以前になんでアンタ俺の番号知ってるンだよ!教えた覚えねぇンだけど!」 『何いってるんだよ、私は社長だよ?部下の携帯の番号ぐらいすぐに分かるさ』 ははは、という笑い声と共に、あのテカテカとした黄金の後光が携帯から噴出している気がした。激しく不愉快この上ない。 「無駄に権力使ってンじゃねーよ!!」 『使ってこそ権力じゃないか。所で吾代くん、緊急事態なんだ。この前からやってるんだがどうしてもクリアできない所があって』 「ふざけんな!攻略本を買え!」 吾代の怒鳴り声に、ヤカンが吹き溢れる音が虚しく掻き消される。 吾代は望月からの電話で頭に血をのぼらせ、すっかりコンロの事など忘れていた。 ガス探知機が鳴り響くのは時間の問題かも知れない。 「あーもう!分かったから大人しく会社で待ってろ!!」 しばらく押し問答を繰り返した後結局押し負けた吾代は、尾坐なりに顔を洗い流して、着替えをとりに寝床兼寝室兼リビング兼へもどる。 万年床を踏み荒し、床に放置してある服を適当に身につけた。選ぶ余裕は精神的にも時間的にもない(あまり遅いと望月から再度電話がかかってくる恐れがある)。 慌ただしく身支度を整える吾代の耳に、形態とはまた違った、甲高い電子音が届いた。 靴下を半ばまではいた所で、漸くガス探知機が鳴ったのだ。 高らかと鳴く報知音とガスの匂いに、吾代はうろたえる。 「やっべ、」 靴下を中途半端にはいた状態で慌てて台所に向かった吾代が踏みしめ蹴りだした布団が、部屋の中を荒らしながら滑った。 それを省みなかった吾代は、ひきっぱなしの吾代の布団の枕元で、小さな南瓜がころりと転がったのに、ついに気づくことはなかった。 |
2007.10.29